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人間死ぬ気になれば・・・というけど、実際のところどうなの?家族へ資産を残すための記録。

事なかれ主義の人は最難の道を選ぶ気がする

僕も親父も事なかれ主義

僕がまだ子供の頃。

家の一部に増築された部分がありそこの屋根はトタンで作ってあった。

ある夏の日、台風が接近して来て、その台風強風が予想されていた。

トタン屋根の部分は風で飛びやすいので、台風が来る前から親父に何度も台風対策したほうがいいと進言していた。

だけど全然聞いてくれなくて、いよいよ台風がうちの地方にも接近して来て、風も強くなって来た頃に、親父が重い腰を上げて、強風の中、屋根に登りトタン屋根が飛ばないように対策をしていた。

早く済ませておけばこんな命がけでやる事もないのに、どうしてこんな大変な目にあうよな行動ととるんだ?!と子供ながら不思議で仕方なかった。

あれから、自分も大人になり、親父を反面教師に、、、どころか全面教師?にして、立派な事なかれ主義である。

臭いものには蓋をするタイプ。

でも事なかれ主義の人は、決断した時は、選択肢の中からもっとも難しい選択肢を選んでいると思う。

だから、なるべく「選択しない」という選択をしてしまうんではないか。

 

もしくはただ単純に、ものぐさ、面倒くさがり、の人。

、、、自分は後者かもしれない。

ペットも生きる。自分も生きる。

Lサイズで耳にウインナー

犬と猫は代表的な愛玩動物だ。

もちろん番犬や盲導犬のように手段として飼っているケースや、家族の一員として迎え入れているケースもあるだろう。

そういったケースでなく、いわゆるペットとして飼うときには、動物の可愛さや血統、素養?に重きを置かれていると思う。

いろんな要素があると思うけど、最終的には選ばれた動物として選ばれなかった動物がでてくる。

またペットも生きている動物なんだから、子供ができたりする事もある。

飼い主の事情で手離さざるを得ないケースもある。

いずれにせよ、飼えない動物はどうなるか。

 

もし今地球上から全ての人間が消えたら、ペットとして飼われていた動物はどうなるだろうか。

他の生物と同様に生き残る物とそうでない物はかならず出てくる。

もし全てが生き残ることが出来たということがあれば、それはペット達より弱い動物の多くの犠牲?の上で成り立っているということになる。

人間が手を下すのか、自然が手を下すのか。

かわいいから手を下してはいけない?

自然は平等だ。

かわいくてもかわいくなくても、死は平等に与えられる。

 

生きるということは、他の生物の命を犠牲にしているということ。

全ての犠牲になったいのちに感謝しつつ、今日はピザを食べました。

 

妻のサポートか妻のマネージメントか

僕はサポートして欲しいんだけど

例えば次のような状態だとする。

妻は専業主婦で、夫の仕事内容はあまり知らない。(社会人経験はある)

 

それで、夫が仕事で遅く帰ってきてこう言う。

「あー疲れた。ちょっとトラブルがあって対応していた。」

それに対する答えとして、サポートする妻なら例えばこう答えると思う。

「お疲れ様。明日からも遅くなる?なるべく栄養のある食事にするね。」

部活のマネージャーみたいな感じ。

 

そして、マネージメントする妻ならこう答えるんじゃないかな?

「お疲れ様。何が原因だった?あなたも関係ある?トラブル起きてその仕事大丈夫なの?」

家にも上司がいて報告しないといけないような感じ。

 

僕はサポートして欲しい。

人によってはマネージメントして欲しい人もいると思う。

仕事内容はすべての情報を伝えることはできないし家族であっても守秘義務もある。

だから、何かを判断する情報は不足しているはずだから、完全なマネージメントは不可能と思う。妻が同じ職場とかならあり得るかもしれないけど。

 

僕の妻はサポートもしてくれるんだけど、マネージメントの事も言いたいんだろう、色々口出ししてくる。

はっきり言ってウザい。

僕の心配っていうか、ぼくの仕事のトラブルがもとで現在の生活に悪影響があるかどうかを心配してる感じがする。

 

多くは望まない。

労いの言葉ひとつだけでいいんだけどな。

人類シミュレータを作ったら少子化対策がわかった

東京は「広すぎる」

新しいプログラミング言語習得のために、ちょっとした人類シミュレータみたいなものを作った。

仕組みは単純で、寿命に達したら死ぬ、子供/青年/老年の世代がある、ランダムに動く、青年の異性同士が同じ場所になったらランダムで妊娠する、など。

500x500マスに男女50人ずつ配置してみたらすぐに絶滅した。人が少なすぎた。

男女250人ずつ配置してみたら300年くらいで絶滅する。

男女比率を変えたりしてもあまり変わらなかった。

そこで、ランダムに移動するんじゃなくて、中心に向かって近づくように移動するようにしたら、人口が爆発的に増えたので、「これか」と納得した。

今、日本もだけど先進国は結構少子化になってる。

人が固まってないから、少子化になってる。

東京なんかめちゃくちゃ人いるじゃん!って思いますよね?

計算してないけど、建物は延べ床面積にして、都道府県ごとの面積を出したら、多分東京ってものすごい土地が広いとおもう。

人口とその総面積で、人口密度が求められますね。多分東京はあんまり人口密度高くないと思う。

つまり自分の中の結論は「人が密集していたら人口は増える」です。

若い人は個別に住むんじゃなくて共同生活みたいにすれば、いいんじゃないかな?

誰かちゃんと調べてみない?

百均の商品はいくらの価値があるか?

100円以上の価値を求めている?

100円の商品があるとする。

だれしも知っているがすべての商品は、原価と粗利でできている。

ざっくり言うとその商品を作るためにかかったお金が、原価。

儲けになるお金が、粗利。

原価だけをみて「この商品は原価これだけだからこれだけの価値しかない」という人もいる。

例えば。

ペットボトルに入った飲み物。

この原価の内訳は、中の飲み物よりペットボトルの原価のほうが高いらしい。

ペットボトルの飲み物の価値ってなんだろう?

実は飲み物の味とか品質もそうだけど、ペットボトルの持つ、飲みやすさ、運びやすさ、軽さといった容器としての価値も忘れてはいけない。使い捨ての水筒と言い換えてもいいかもしれない。

ペットボトルの飲み物で別の例を出すなら、どこで手に入れられるかも重要。

例えば、砂漠のど真ん中で売っていたら、高い価格が高いついていたとしても、それだけの価値がある。

 

人の価値も、そこにない能力を持った人なら、高い価値を見出されるとおもう。

 

百均は、100円でこんなものが買える!と、100円ならこの程度で我慢するか、が混在する。

100円という絶妙な価格設定が文化として根付いたと思う。

綺麗にプレスされたハンカチが道端に落ちているのを見た時、とてつもなく切なくなる

勝手に「踏みにじられた想い」を想像してしまう

道端に軍手なんか落ちててもまったくこころは痛まないんだけど、綺麗にプレスされたハンカチはものすごく心が痛む。

落とした人の妻が母が、洗濯後のハンカチにアイロンで綺麗にプレスして、落とした人にもたせたわけです。そこにその人へのさりげない愛情、ありふれた日常生活のルーチンの一部かもしれないプレスされたハンカチ、3枚500円とかの安価なハンカチかもしれない。

でも、そういうのも全部、気づかずに落としてしまった。

その誰かのハンカチをみると、ハンカチ一枚に関わったいろんな人の想いを勝手に想像して勝手に心を痛めています。

だから、僕の歩く道にはだれもハンカチを落とさないで下さい。

次に切ないのは、ちょっと高価そうな手袋。

落し物には気をつけて欲しい。

新しい事が頭に入ってこない

ガチガチの頭

若い頃は、興味のある事だったら、スポンジが水を吸うようにどんどん知識が入って行った気がするんだけど、今は興味があって時間も使ってるにも関わらず、ぜんぜん入ってこない。

集中できてない感もある。

これって常日頃から頭使ってないとダメだな。

いつもと同じ事を考えずに惰性でやるっていうのが脳に良くないと思う。

いつもと同じ事でも考えながら、新しいアプローチや新しい技術、情報なんかと重ねながら常日頃から頭使って行動してたら、こんなカチカチになってないはずだ。 

脳内で、過去の成功事例なんかを引っ張り出して来て、無理やり当てはめようとしているから、溝は埋まらない。

栄養は足りすぎてるはずなんだけどなあ。