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人間死ぬ気になれば・・・というけど、実際のところどうなの?家族へ資産を残すための記録。

プレゼント企画は誰が得するか?

この記事はプレゼント企画ではありません

プレゼントはたいていの場合、もらったら嬉しい。

自分が欲しいものを好意的な人からもらうのがたぶん一番嬉しいと思う。

知らない人とか、利害関係の人からプレゼントをもらうと、何か裏があるんじゃないかと勘繰るし、絶対裏があると言ってもいい。

たまにスタバのような店にいると、今度出る新商品の試食とかが少量もらえたりすることがあるが、それはちょっと嬉しいプレゼント。

飲食店で食後にクジかなんか引いて、何かもらえるキャンペーンとかは、結局このイベント費用も飲食代からでてるんですね、という気持ちになる。

店側が身を削って出してるイベント費用というのは、客目線では自分がそのイベント費用の一部を負担しているという気分になる。僕だけかもしれないけど。。。

負担してると思うと、くじが外れたりすると腹立たしいし、なんならいつもよりアジやサービスも落ちた(落とされた)んじゃないかと思ってしまう。

まだ在庫が安く売られたり、配られたりするほうが気分的に良い。

ラーメン屋なら、から揚げとか煮卵をプレゼントされるより、ポイントが2倍とかのほうがいいと思う。から揚げも煮卵も欲しくない人もいる。そういう人は自分からもらうことを拒否したのは間違いないけど、何ももらえなくて損した、という気持ちにはなる。

プレゼントすることは、悪く言えば、海老で鯛を釣る、という行動であると思う。

商売絡みでのプレゼントは100%顧客獲得など、その先を目的としている。

ただ顧客も馬鹿ではないので、そういう「下心」は見透かした上で、プレゼントだけを享受しようとしている。

プレゼント企画なんてもういらない。

 

欲しいものが見つからない

けどたぶんどこかにある

この世の中には、たくさんの製品が存在して、一生のうちで知ることもなく目に入ることもない製品が数え切れないくらい存在している。

その割には、自分が欲しいもの、探しているものは見つからない。

何故だろうか?  

 

まず、行動範囲の制約がある。

この場合、その製品の存在を知っていて予算内だったとしても買えない。

amazon楽天みたいなネット販売で様々なものが買える今でもまだまだ買えないものがある。

 

予算の制約もある。

いくら思った通りの製品でも、予算オーバーなら買えない。

ものによってはローンを組んで買うものもあるだろうが、それはある意味予算内だ。

 

そもそも買えないという状況。

国宝とか、あるけど所有できないものもたくさんある。そういうのを欲しがる人もなかなかの人だと思うけど。

他人の持ち物が欲しいっていうのもこの系統かな。

 

世界に一つしかないもの。

誰かが誰かのために作ったもので、もう注文もできないとかね。

善意とかが起点となったものは、金の問題ではないね。ただ、情熱を持っていれば手に入るかもしれないけど。

 

過去のもの。

昔に作られたものは有限だから、一定数出回ったらもう買えない。

世の中に存在はするけど買えないと欲しくなるね。

 

売り手からしたら、自分の製品を買ってもらいたいとありとあらゆる努力をしているはずだけど、やはりそれが買う人から見て行動範囲内であり、予算内でなければ知ることもないし買われない。

売り手は、とにかく周知と買われるための手段を増やすことが重要と思う。

知らなければ買えない。

まず、選択肢の一つとならなければならない。

めちゃくちゃな要求

応えるかどうかの選択肢すらない時

多分、この現代に至るまでに、時の権力者などから、めちゃくちゃな要求を突きつけられた人は、すごい数いると思う。

そして、それに応えられなかったためにいのちを落とした人もすごくたくさんいるはず。

だけど、知恵を絞ってその無理難題に応えた人達もいた。

そしてそれは現在に引き継がれて技術や知識のない礎となっているんだろう。

ある程度理解力のある人なら「これは無理だろう」と判断して無理な要求を出したりはしない。

しかしこれでは新しいものは生まれない。

理想的なのは、創造者が自分に挑戦し続けて新しいものを生み出すことだろう。

時には無知な権力者による無茶苦茶な要求が、新しい世界を切り開くこともあることだろう。

 

ところで、韓国の大統領が罷免された件。

あれは権力者が民衆に無理難題を要求したわけじゃなくて、民衆が権力者に無理難題を要求したケースじゃないだろうか。

社会的に死んだも同然だろうな。

終わりは近いと思う。

時間の使い方

カップラーメンを待つ3分間は何円の価値があるか?

1日は24時間で、全ての人間に等しく与えられている。

そのうち、睡眠で活動できない時間もあるし、病気や怪我または障害などで、自由に動けない場合もある。

例えば、水が飲みたいと思ったとき、家の水道水を飲むのか、近くのコンビニに買いに行くのか、近くの井戸まで汲みに行くのかは、住んでいる環境によって異なる。

ただ水を飲むということだけでも、必要な時間は人によって全然違う。

多分、今一番旬の芸人といえばブルゾンちえみ(with B)と思うけど、彼女は1分1秒が金になるくらいの忙しさだろう。

これくらい忙しいと「お金払っても良いから寝たい、休みたい」と思うだろう。

ブルゾンちえみの3分と、僕がカップラーメンを待つ3分間は多分数百万円の差がある。

同じ3分だけど価値が違う。

でもいまブルゾンちえみが欲しいのは、僕がぼけっと過ごしている3分間だろう。

ブルゾンちえみから見れば僕の3分間はお金を払ってでも過ごしたい3分。

環境や状況で、価値が変わる。

何もせずボケっと過ごしていることを、無駄なことをしていると思う必要はない。

今後忙しくなったとき、そのボケっと過ごした時間を思いだせばいい。

タダより高い物はない

誰しも安く良い物を手に入れたいと思うけど

良い物は高い。

安いものは悪い。

という価値観がある。

良い物なのに安い、は価値観に反しているものの良い事だから歓迎される。

「良い物なのに安い」という状況はどういうことか考えてみる。

1.販売者が、その価値を知らずに値段をつけて売っている。

これは需要と供給のバランスがとれてないとか、販売者が気づかないところに価値があるとかの場合。

2.販売者が利益を削っている。

これは販売者の思いや他の製品との兼ね合いで値段を下げている場合。

3.季節商品や賞味期限近くなど、販売終了時期が近づいている。

バーゲンのもともとはこういう商品の販売だったはず。今のバーゲンは安売りありきなのでちょっと意味合いが違うはず。

4.短期的な資金集めをしている。

販売者の都合でお金が必要な時、確実に売れるものを値引きすれば、確実にお金を集められるはず。

5.業界破壊目的。

その業界で価格破壊を起こし、同業他社を駆逐する。その後自社がそこそこの商品を売れば独占状態になる。

 

誰しも得したいし、損したくないと思っている。

ところが、その想いが過剰になっている人がいる。

例えば、友人がケーキ屋さんをやっていたとする。

開店時に、祝儀も兼ねて買って食べてみたらとても美味しかった。ただ、自分が思っているケーキの値段よりは少し高く気軽に行ける店ではなかったとしよう。

こういう事を思う人もいるかもしれない。

余ったらタダでもらえるんじゃないか?

友人だから安くしてもらえるんじゃないか?

甘いです。激甘です。

一度でもただであげたら、その店でつぎに買うことはないでしょうね。だって買わなくてもまたタダでもらえると思ってるから。

また、友人ということを盾にまけさせようとする人もいると思うけど、友人だからこそ定価で買うべき。

もしそのケーキ屋さんが毎月1日はサービスデーで、全商品10%引きなら、1日に買いに行くことはなるべく避ける。

それは、そのお店のお客さんに向けてのサービスだから。

友人のお店を応援しているのなら、そういったサービスは使わずに定価で閑散期を狙っていく。

自分や家族が食べる時だけ利用するのではなく、手土産とかプレゼントでお店を利用できないか考える。

そうしてお金を回していくことで、いつか自分のところに返ってくる(かもしれない)。

金は天下の回り物っていうけど、そのとおり。

つまり、タダでモノを得ても、お金は回らないから、結果的に損している。

払うところにはちゃんと払おう。

脱エネルギー

3.11 東日本大震災を忘れない

震災で家族を失い、原発事故で失った家族を探す事もできず、数年後にようやく探せるようになり、今は電気を使わない生活をしている人がいるという記事を読んだ。

生活を豊かにするためのエネルギーを生み出す装置(原子力発電)のせいで、つらい状況を受け入れざるを得なくなった。 

電気をエネルギーとして使うようになったのは人類の歴史から見ればつい最近の話。

そのごく短期間に今までの歴史以上の時間が必要な事故が起きてしまった。

原子力発電は人が扱うにはまだ早いと思うと、以前にも書いた。

エコや省エネを訴えるにしても、エネルギーを消費しなければならない矛盾が発生する。   

人がエネルギーについて次のステップに進むなら、完全にエコ(巨大設備を作らず)だろう。

3.11が転換点になればいいなと思う。

セクハラの境界線

決して境界線ギリギリを狙うためではない

数人で会話してた時、ある人の発言を受けて僕が発した言葉について、「それってセクハラだよ」って第三者に言われた事がある。

言われた方は年上の男性だったし、あとあと別の人に聞いたけどセクハラとは思えない、と言ってくれた。

自分でもそれってセクハラ?!ってその時に心の中では憤慨したもんです。

そんで、最近、そのセクハラ発言を指摘してきた人が、異性のお客さんに誰が聞いてもセクハラと思える発言をしているところを見て、コイツは僕が嫌いなだけか、とある意味安心した。

セクハラって、言われた人が不快に思う、というのがまず一番と思う。

セクハラ以前にコンプレックスの部分を指摘されるのは誰だって嫌だと思う。どこがその人のコンプレックスなのかっていうのがわからないから難しいんだけど。

僕の場合、痩せてるとか細いって言われると、ちょっとグサっとくる。

あと見た目とかじゃなくて、あんまり親しくない人に、住所とか家族構成を聞かれるのが嫌。

なんか弱みを握られるみたいな感じがする。

だから、他人にプライベートな事を聞かないし、自分の事も話さないから、あんまり友達はできないね。

公開できるプライベートっていうの持った方がいいよ。Facebookくらいに掲載できるレベルの。

セクハラで困ってる人は立場が弱い人だよね。

対等か強い立場なら、言い返せるし。

ボディタッチは論外やと思うわ。